人間回復の橋
今年は邑久長島大橋が架かって30周年だそうで。昨日、テレビで特番が組まれていた。
ま、地方局(RSK)での放送だろうから岡山周辺のみでの放送だろうがそれはさておき…。
瀬戸内市邑久町の南の方にある長島は、ハンセン病患者が隔離された島である。
その長島に、30年前架けられたのが、邑久長島大橋である。
大橋と言っても、たったの30mしかない。
でも、このたった30mの橋をかけるのに、とても長い時間がかかった。
この邑久長島大橋が架けられたことは、ハンセン病患者の方々の隔離から解放されることを意味する。
そのことから、邑久長島大橋は、人間回復の橋、とも呼ばれているそうだ。
ま、ここまでのことは知っていた。
過去に訪れたことがあるから。
番組の中で印象的だったのは、ハンセン病患者の方々の言葉だ。
その中の
橋は自分たちを裏切らなかったんだから、自分も橋を裏切れない。
という言葉が特に印象に残った。
人間回復の橋ということは、自分はこれからは、この橋に恥じないよう、一人の人間として恥ずかしくない生き方をしなくてはいけない。
そういう思いのこもった言葉だったのだが…俺はこの言葉を聞いて、
なんていう人だ…。
と思った。
ハンセン病患者の方々は、差別をされた側の人たちである。
つまりは被害者である。
この橋が架かることによって、一人の人として恥ずかしくないような生き方をすべきなのは、差別をしていた側の人たちではないのか?
人間回復の橋は、ハンセン病患者の方々が人としての尊厳を取り戻すための橋であると同時に、差別をしていた側の人たちが、“人”として、二度とこのような差別をしてはならないという意味も含まれているように俺は思う。
ハンセン病患者の方々に対するあのような扱いは、まともな“人”のやることではない。と思うから…。
人間として“回復”しなければならないのは、差別を受けていた側では無くて、差別をしていた側の方のように思う。
それなのに、ハンセン病の方の方が
一人の人間として恥ずかしくない生き方をしなければならない。
と言ったのには、人として認められたことに対する責任を強く感じた…。
人は障害者とか、大きな病気をかかえた人を見ると、すぐに
かわいそう
などという。
でも、どうなんだろうな~。
自分の足で歩けることや、自分の手で触れられることや、自分の目で見られることや、自分の耳で聴けることや、“人”として生きていること…それらのことの素晴らしさに気付けない人の方が、よっぽど“かわいそう”なように思う。
例え自分の足で歩けなくても、自分の足で歩けることを素晴らしいと思える人は、幸せだと思う。
実際に素晴らしい物を持ってても、その素晴らしさに気付けないことはとても不幸なことだと思うから…。
人は、自分とは違う人を一括りにしたがる。
障害者、であったり、ハゲ、であったり、デブ、であったり…。
そうやって、自分が持ってるモノを持ってない人を揶揄することこそ“差別”なんじゃないかな~。
少なくとも、俺の中では“ハゲ”とか“デブ”は差別用語だ。
名前を知ってる人の事は名前で呼ぶべきだし、名前を知らない人に対しても、安易に身体的特徴とか年齢とか性別で指差すものじゃないと思う。
あそこにいるデブ、とか、あのねーちゃん、とか、あのガキとか、あのババアとか…。
人にはそれぞれ名前があって、それぞれに尊厳がある。
その尊厳を傷つけるような言葉は…使わないように心がけたい。
それにしても、俺が邑久町長島について知ったのは、大人になってからだった。
岡山に住んでても、誰もハンセン病のことは教えてくれなかった。
こういう事こそ、学校が積極的に伝えていくべきだと思う。
今の教育は、そのあたりはどうなんだろうな~…。