みつのブログ

気ままに書いてます。

存在を“感じる”時

自分は男である。

と、感じるときはどんな時?

と訊かれたら、セックスをしている時。とか、好みの女性の姿を見てドキドキしたときとか、もっといえば勃起したとき。とか、やはりというか、性欲が掻き立てられたとき、と応える。

...

つまり、“男”という存在は“女”から与えられているし、“女”という存在もまた“男”から与えられている。

では、自分は両親の子どもである。と感じるときはどんな時だろう?
“自分”が幼い子どもだとしたら、親に抱きしめられている時とか、親と一緒に遊んでいる時、などではないだろうか?と個人的には思う。

だから、例えば、

お父さん遊んで~

と子どもがせがんできたときに、いつも決まって

また今度ね。

という親がいたとすれば、子どもは、その親が自分の親だと“感じる”ことは無いだろう。

血のつながりという物理的なつながりはあっても、子どもがその大人を“親”だと感じられないならば、その大人はその子にとって“親”ではないのだ。

どーせ頼んでも“また今度”て言われるだけだからもういいやと子どもが思ったら、その親子はもはや親子ではない。と言えるかも知れない。

では夫婦のつながりはどうだ?
その男性が“夫”であると“感じる”時、或いは、その女性を“妻”と感じるときは、どんな時だろう?

もし、お互いがそう感じるときが皆無に等しいとすれば、書類の上でのつながりという物理的なつながりはあっても、その夫婦は夫婦とは呼べないだろう。

子どもという存在は親の心が与えるものであり、親という存在は子どもの心が親に与えるもの。

それと同じで

夫という存在は妻の心が与えるもので、妻という存在は夫の心が与えるもの。

相手をないがしろにしていたら、その関係はもはや親子とも夫婦とも呼べない。

血の繋がりだの書面だのそんな物理的な理由じゃなくて、この人は自分の家族である。と言える何かを一つはもっていたいものだと、常々思う。

趣味に没頭して家族をないがしろにしてしまうことがちょくちょくあるからなあ…。

テレビとかは、結婚して子ども育てようと思ったらこれくらいの収入が要りますよ。みたいなことをまくしたてるけど、俺からしたら、家族ででかけたり、家族でテレビを見たり、家族で食卓を囲んだりする時間を大切に出来ることの方が大事だと思う。

よーするに、子どもが

私はこの両親の子どもだ。

と思えるような親になることが大事じゃないかな~。

夫として、親として、息子として、男として存在してるのは、自分に妻がいて、子どもがいて、親がいて、女がいるから。
そんな当たり前のことでも、こうして考えてみると感慨深いものがある。
存在してる。て当たり前のことに思ってる人も多いけど、案外そうじゃない。
お金のことも大事だけど、そこにばかり目をやってると、他の大切なものを見失ってしまう。