みつのブログ

気ままに書いてます。

犯罪の責任

犯罪の責任は、犯人だけにあるのかな?
俺は、そうじゃないと思う。

犯罪者だって、罪を犯すまでは一般民だった。

で、その一般民が、罪を犯すのは、何らかの理由で人生に絶望(…あくまで個人的見解だが“むしゃくしゃした”とか“ストレス”とか言ってるけど、それは“絶望”をそれらの言葉に言い換えてるだけだと思う…)したからだと思うし、その彼が人生に絶望したのは、社会…つまり我々…にもなんらかの原因があると思う。

そーいや聖書だったか福音書だったか…とにかくキリストにまつわる物語で、
村人たちが、不貞を犯した女性に石を投げていた。
石を投げてた村人たちにイエス・キリスト

「この中で一度も罪を犯したことの無い者は、この女に石を投げなさい。」

と言った。
村人たちは全員石を投げるのをやめた。

というような話があったと思うけど、これはとても素晴らしい物語だと思う。

犯罪に至ってるかどうかはともかく、誰かしら何かしら罪を犯してる。

人に悪口を言ったことが一度もない人や、人を見下して馬鹿にしたことが一度もない人や、人に攻撃的な言葉を浴びせたことが一度も無い人なんて、まずいないと思う。

もてない人や、太ってる人や、夢見がちな人が“お笑い”のネタにされるのは、そういう一面もあるからだと思うし。

犯罪者は自分勝手だ。身勝手だ。ストレスくらいで人を殺すな。

…そんな言葉を言えるほど、皆…周りの人を思いやってるのかな?社会のことを考えて生きてるのかな?

普段は社会の事とか全く考えないくせに、凶悪な事件があった時だけ憤るのって…なんか違うんじゃないかな?と個人的には思う。

悲惨な事件が起こった後に人を思いやったり犯人に怒りをぶちまけても後の祭りで、本当に大事なのは、凶悪な事件が起こらないためにはどうすればいいだろう?
てことを考えることだと思う。

その、罪を犯した人に対して、社会はどうであったか?
そこのところを考えてみるのも、大事な事じゃないかな~。

ギリシア神話に出てくるパンドラが開けてしまった甕(箱の方がなじみ深いが本当は甕)の中には、様々な災いや災禍が入っていた。
それらに交じって“希望”も入っていた。
ていう話を読んで、なんで災いとかの中に希望が入ってたのか?不思議に思ってたけど、今ならなんとなくわかる。

希望は、苦しみの中にこそ見出すもの。

だから、パンドラが開けてしまった甕の中に希望が入っていたのだと、今なら思う。

平和に、幸せに暮らしている人は希望を見出す必要もないものね。

皆が言うほど、犯罪者って“特別”じゃないと思う。
案外紙一重のところがある。
少なくとも、俺は…。

もちろん、だからといって、犯罪者を許せるわけじゃない。

ただ、犯罪者のことを理解せずして、犯罪をなくすことは出来ないと思うだけのことだ。