とても素晴らしい
すごく綺麗
とか
すごいかっこいい
とか
すごい面白い
と言うよりも
とても綺麗
とか
とてもかっこいい
とか
とても面白い
と言う方が……好き☆彡
あくまで個人的な見解だが、“すごい”ってなんか、節操がない…もっと言えば子どもっぽい…ような気がするし…。
“とても”の方が、品がいいというか、響きがいい。と、個人的には思っている。
もう一つ言うと、“素晴らしい”と思ったことに対して“すごい”で済ませるのも好きじゃない。
そもそも“すごい”だけでは、それが良い意味ですごいのか、それとも悪い意味ですごいのかがわからない。
例えば
あのアーティストはすごい!
と言われても、すごく上手なのか、それともすごく下手なのかわからない。
ま、大抵の場合、下手なときは
すごく下手だ。
と言われるのでわかるんだけど…それでも俺は、素晴らしいものは素晴らしいと言いたい。
言葉を並べればいいってものんでもないけど、本当に感動したものを
すごい
とか
いいですね~
などの一言で済ませるのもどうかと思うし。
“すごい”とか“いい”と違って、“とても”は、その後に何か言葉をつけなけらば意味が伝わらないけど、それでも俺は…とてもの方が好き☆彡
それに、俺にとって大事なのは、それが“すごい”かどうかじゃなく、“素晴らしい”かどうかだから…。
すごい人や、いい人、はいくらでもいるけど、素晴らしい人はそんなにはいない。
すごい人の例を挙げれば、売れてるお笑い芸人とか、タレントとか、人からお金をだまし取る詐欺師だって…“すごい”。
いい人はどこにでもいるし…むしろ悪い人の方が珍しい…
そんな人たちと、素晴らしい人を一緒くたにはしたくない。
だから俺は、素晴らしさに対しては“素晴らしい”と言いたいし、より素敵だと感じたことに対しては“とても”を使いたい。
全国的に名前が知れていたり、日本一とか世界一などの栄誉に輝いてたり、フェラーリとかロマネコンティとかロレックスとかを買える人は確かに“すごい”人ではある。
だけど、“素晴らしい”かどうかとなると、話は別だ。
“すごさ”を見せつけてちやほやされようとしてる人は、結局人の心に残らない場合がほとんどだしな…。
いじりについて思うこと
人間回復の橋
今年は邑久長島大橋が架かって30周年だそうで。昨日、テレビで特番が組まれていた。
ま、地方局(RSK)での放送だろうから岡山周辺のみでの放送だろうがそれはさておき…。
瀬戸内市邑久町の南の方にある長島は、ハンセン病患者が隔離された島である。
その長島に、30年前架けられたのが、邑久長島大橋である。
大橋と言っても、たったの30mしかない。
でも、このたった30mの橋をかけるのに、とても長い時間がかかった。
この邑久長島大橋が架けられたことは、ハンセン病患者の方々の隔離から解放されることを意味する。
そのことから、邑久長島大橋は、人間回復の橋、とも呼ばれているそうだ。
ま、ここまでのことは知っていた。
過去に訪れたことがあるから。
番組の中で印象的だったのは、ハンセン病患者の方々の言葉だ。
その中の
橋は自分たちを裏切らなかったんだから、自分も橋を裏切れない。
という言葉が特に印象に残った。
人間回復の橋ということは、自分はこれからは、この橋に恥じないよう、一人の人間として恥ずかしくない生き方をしなくてはいけない。
そういう思いのこもった言葉だったのだが…俺はこの言葉を聞いて、
なんていう人だ…。
と思った。
ハンセン病患者の方々は、差別をされた側の人たちである。
つまりは被害者である。
この橋が架かることによって、一人の人として恥ずかしくないような生き方をすべきなのは、差別をしていた側の人たちではないのか?
人間回復の橋は、ハンセン病患者の方々が人としての尊厳を取り戻すための橋であると同時に、差別をしていた側の人たちが、“人”として、二度とこのような差別をしてはならないという意味も含まれているように俺は思う。
ハンセン病患者の方々に対するあのような扱いは、まともな“人”のやることではない。と思うから…。
人間として“回復”しなければならないのは、差別を受けていた側では無くて、差別をしていた側の方のように思う。
それなのに、ハンセン病の方の方が
一人の人間として恥ずかしくない生き方をしなければならない。
と言ったのには、人として認められたことに対する責任を強く感じた…。
人は障害者とか、大きな病気をかかえた人を見ると、すぐに
かわいそう
などという。
でも、どうなんだろうな~。
自分の足で歩けることや、自分の手で触れられることや、自分の目で見られることや、自分の耳で聴けることや、“人”として生きていること…それらのことの素晴らしさに気付けない人の方が、よっぽど“かわいそう”なように思う。
例え自分の足で歩けなくても、自分の足で歩けることを素晴らしいと思える人は、幸せだと思う。
実際に素晴らしい物を持ってても、その素晴らしさに気付けないことはとても不幸なことだと思うから…。
人は、自分とは違う人を一括りにしたがる。
障害者、であったり、ハゲ、であったり、デブ、であったり…。
そうやって、自分が持ってるモノを持ってない人を揶揄することこそ“差別”なんじゃないかな~。
少なくとも、俺の中では“ハゲ”とか“デブ”は差別用語だ。
名前を知ってる人の事は名前で呼ぶべきだし、名前を知らない人に対しても、安易に身体的特徴とか年齢とか性別で指差すものじゃないと思う。
あそこにいるデブ、とか、あのねーちゃん、とか、あのガキとか、あのババアとか…。
人にはそれぞれ名前があって、それぞれに尊厳がある。
その尊厳を傷つけるような言葉は…使わないように心がけたい。
それにしても、俺が邑久町長島について知ったのは、大人になってからだった。
岡山に住んでても、誰もハンセン病のことは教えてくれなかった。
こういう事こそ、学校が積極的に伝えていくべきだと思う。
今の教育は、そのあたりはどうなんだろうな~…。
支配欲と独占欲
男は支配欲が強く、女は独占欲が強い傾向にあるらしい…。
という話をちらっと聴いた。
女は独占欲が強いという話はとりあえず置いておいて、男が支配欲が強いというのは、言われてみれば…思い当たるフシが無いでもない。
例えば、ニュースになるほどのストーカー事件の犯人は、男性の方が多いように思うし、男が女を刺した事件は多いけど、その逆はあまり聞かないし…。
それは、男が女を“支配している”と思ってるからで、その支配から逃れることを許せないから、そういう行動に出る。と自然に想像できるし…。
メイドカフェがウケたのだって、その辺のことと関係があるのかも?
それに、ガールハントって言葉は聞いた事あるけど、ボーイハントって言葉は聞いた事無いし…。
それにAVだって男が女を支配する的な内容のが多いし…。
それにしてもわからないのは、その割には、AVには男数人で一人の女を…という内容のが結構多いんだよな~。
俺なら、隣で他の男とやった女を、すぐそのあとで抱きたいとは思わないけど…。
そーいや北欧神話に登場する女神フレイヤは、四人の小人たちが持っているブリージンガメンという首飾り欲しさに…やっぱやめとこ…。
それにしても、例えば、縛られるのが好き、とかいう人もいるけど、言われてみれば、確かに好きな人に縛られるという行為は、自分が縛られてる間は縛った相手を“独占”してることになるよな~。
だから、縛ってる方は支配欲が満たされ、縛られてる方は独占欲が満たされる…という意味では、理にかなってるのかも?
ちなみに、俺にはそういう趣味は無い。
そーいや若い頃の知り合いで、ナンパをよくしてた奴で、
助手席に乗せてしまえばこっちのもの
くらいに思ってた奴とかいたな~…。
自分の車の助手席に座ったくらいでモノにした気になるなんてどれだけおめでたい奴なんだろうかとその時は思ったものだ。
美醜
あるところに雌猫がおりました。
雌猫はある日、美しい青年を見て恋をしました。
そして愛の女神アプロディーテに祈りました。
私を人間の女に変えてください。あの人と一緒になれるように…。
と…。
アプロディーテはこの願いを聞き入れ、雌猫を美しい娘に変えました。
その青年は、娘…になった雌猫…を気に入り、二人は結婚することになりました。
2人が結婚式の準備をしている時、アプロディーテは雌猫が本当に人間になったかを確かめようと思い、娘(雌猫)の前に一匹のネズミを放しました。
すると娘(雌猫)は、ネズミを追いかけまわしました。
習性までは人間になってなかったのです。
怒ったアプロディーテは娘を元に戻しました。
有名なイソップ童話の物語だが…。
そうなんだよね。
いくら見た目を取り繕っても、中身が伴ってないと意味が無いんだよね。
でも、この物語に出てくる青年のように、見た目だけで人を判断する人は多い…特に男性には。
見た目だけで人を選ぶ愚かさも、この物語からは伝わってくる。
そーいやある賢人は、
醜い者はその醜さを補うために、美しい者はその美しさを損なわないために徳を高めるべきである。
と言ってるけど、ホントその通りだと思う。
見た目を取り繕ったり、豪華なもので飾り立てたりしたって、“すごいすごい”ともてはやされることはあっても…ていうか…それだけだ。
そういう俺も、かつては物でアピールしようとしていた時期があった。
自分の車はこんなにすごい。
だの
自分のカメラはこんなにすごい。
だのと…。
でも、自分の持ち物のすごさをアピールするのは、自分自身には何もない。
とアピールしてるのと同じだということに、かなり時が経ってから気付いた。
自分が好きでそれを所有して大事にするのは素晴らしい事だけど、人に良く見られたくてそれを所有するのは、とてもみっともないことだと、個人的には思う。
今の俺は、自分の“言葉”で自分を印象付けることが出来る。
それは今まで、素晴らしい人たちとの出会いや、素晴らしい作品、素晴らしいアイテムによって経験できたことによる。
誰かに自分のすごさを見せつけようとしていた時は、誰の印象にも残らなかったけど、自然に自分のことが話せるようになって、自分のことを覚えてくれる人が増えた。
醜い人は、その醜さを補うために徳を高めるべき。
自分の経験からしてもそう思う。
余裕…
知り合いに腕時計が好きな人がいる。
で、たまに冗談半分で、俺にも腕時計の購入を勧めてくる。
いい車乗ってて腕時計もしてなかったら車でいっぱいいっぱいの人に見られるよ。
とか、
時計は名刺代わりだから
とか
参観日って、あそこのお父さんがどんな時計してるか見てる人は見てるよ。
とか
もういい歳なんだからそれなりの時計を身に着けるべきじゃない?
とか言ってくるんだけど…。
悪気はないのはわかる。
だけど、こうして自分の価値観を押し付けるのはよくないな~と思うし…正直、ちょっと疲れる…。
ちなみにその人は、こないだロレックスを買ったらしい。
ロレックスって50万くらいするらしい。
で、その人は、俺のことを、
いい車乗ってて腕時計もしてないと車でいっぱいいっぱいの人に思われる。
と言ったが…その人が乗ってる車は…軽自動車…。
そのうえ、外食と言えば全国チェーンのファミレスとかファーストフードとか…ケーキを買いに行くと言えばシャトレーゼ…。
で、その人がどこか旅行に行ったという話もほとんど聴いた事が無い。
俺からしたら、そっちの方が
腕時計でいっぱいいっぱいの人
だと思えてしまうのだが…。
それと、
時計は名刺代わり
というけど、あくまで俺の経験だが、腕時計がその人のトレードマークになってる例はかなり少ないと思う。
例えば俺なら、S2000乗ってる人だな。
とか
一眼レフ持ってる人だな。
とか
ギリシア神話とか好きな人だな。
と思われて場合があるし、俺も、
ああ、あの人は絵を描くのが好きな人だな。
とか
あの人は大きな天体望遠鏡持ってる人だ。
とか
あの人はでかいバイク乗ってるよな~
とか、思う事あるけど、でも
あの人はかっこいい腕時計してるよな~
と、思ったことは今まで無いし、そういう話を他の人から聞いたことも無い。
つまり、腕時計で自分のことを覚えてもらえることは、そんなには多くない。
ま、あくまで俺の場合は、だけど。
参観日で見る人は見てる。
に至っては、だから何?て感じだし。
仮に身に着けてる物で人を判断するような人がいたとしたら、そういう人にどう思われようとかまわないしな。
持ち物で人のことを判断する人にろくな人はいないから。
いい歳なんだからそれなりの…
については更にどうでもいい。
それなりに成功してる人が言うのならまだしも、車は軽自動車、外食は全国チェーンばかり、会話と言えば、自分の興味の無い分野の話だと“いじり”にかかり、興味のある話だとこれでもか!というくらいたたみかけてくる…。
このような人がロレックスしてても、良い印象で見られることは…難しいと思う。
ということを本人に伝えたいのだが、これを言うと多分ケンカになるか、口をきかなくなるだろう。
言うまでもないが、大事なのは、その人が素晴らしい物を持ってるかどうか?ではなくその人が素晴らしい人かどうか?である。
それに、余裕にしても、その余裕というのは、その人の持ち物よりも、その人の行動とか人に対する態度の方に現れやすい。
確かに俺には金の余裕はないが、休日にちょっと海でも見に行こうか?とか、珈琲のみに行こうか?とか、図書館で本借りてこようか?とか、そのような余裕はある。
人と話すときも前ほどあわてなくなったし(前は知らない人と話すのが今以上に苦手だった。)自分の価値観を押し付けるようなことも無くなった。
自分の“余裕”を見せたいなら、まずは価値観の押し付けはやめるべきだろうな~…。
これも言いたいけど…言えない(笑)
でも、ここに書いてけっこうすっきりした☆彡