スパルタの短い剣
ある国の王が、スパルタの剣が短いのを嘲った。
それを受けて、スパルタの王は言った。
「だがこの剣は、相手に届くのだ。」
と…。
嘲りに対する鮮やかな切り返しに…しびれた☆彡
と、同時に、この言葉は、
大事なのは中身だ。
と言うことに、改めて気付かせてくれる。
俺には、人をときめかすルックスも無いし、給料だって安いし、学歴だって低いし、パッとしない奴を絵に描いたような奴だ。
だが、“俺”の印象は、相手の記憶に残るのだ。
これ見よがしに自分のことを見せつけようとしなくても、ていうか、素直な自分をありのままに見せた方が、相手の印象に残りやすい。と思う。
ま、それをやるには、見せられる自分、とか、伝えたいと思うこと、があるというのが前提だけど。
で、“自分”を伝えるのに、大げさな物は必要ない。
自分を伝えるのに必要なのは、大げさな自慢話とか見せつけとかではなく、日々積み重ねている経験とか、深めている思いとか、磨きぬいた言葉とか、素直な自分を見せる勇気。だと思う。
スパルタの兵だって、相手の懐に飛び込む勇気があるからこそ、短い剣に自信を持てるのだ。
自分の未熟さを、物とか、安易な自慢などでごまかそうとする人より、自分の未熟さを素直に見せられる勇気のある人の方が、好印象を持たれやすいと、個人的には思う。
なので、自分の持ち物をやたら自慢するもんじゃないし、自分がせっかく選んで手にしたものを恥じるべきでもない。
持ってるモノが立派かどうかで、自分の価値が決まるわけじゃないのだから。
大事なのは、自分がどれだけの物を持っているか?ではなく、自分がどんな人間か?だ。
自分が魅力ある人間であれば、自分の事は相手に伝わる。
と、俺は思う。
それにしても…“いじり”、て結局、嘲り、とか、からかい、とか、おちょくり、を、ちょっと綺麗にしてみました、みたいな感じの言葉だと個人的には思う。
“いじり”とか“おちょくり”とか言えばなんだか許されるような気がするけど、“嘲り”とか“からかい”となると、許せることではない。
“いじり”という言葉が流行ると同時に、“嘲り”とか“からかい”とか“おちょくり”という言葉が影を潜めたような気がする…。